タングステン鉱山の町 亀岡市ひえ田野町
亀岡市ひえ田野町鹿谷。現在では寂れたどこにでもある田舎町にしか見えない。しかし、かつては日本有数のタングステンを有する鉱山の町として栄えていた。
とこなげ山の麓には多くの鉱山労働者の家々が立ち並び、彼らは土と石に囲まれた薄暗い鉱山の中で日本の軍需産業に使われたタングステンを掘り続けていた。
当時は良質で大量のタングステンを産出しており、日本で最大規模を誇っていたが次第に産出量も減少し、タングステンの国際的な暴落も加えて採算をとることができなくなり、1983年に閉鎖された。
なお、第二次大戦中、鉱山労働者は朝鮮からの出稼ぎ労働者が多く、彼らは地元住人に溶け込むことができずに独自のコミュニティを作る場合もあった。
現在でも、そうした出稼ぎ労働者の二世、三世の住む家屋がある。
かつて亀岡市に存在した山城「鹿谷城」の概要
鉱山の町として栄える以前の鹿谷の集落は現在と変わらず、中央から距離がある田舎町でしかなかった。鹿谷に関する資料も少なく、鹿谷城(別名、丸勘城)の詳細も不明である。
民家に囲まれた、小規模な南北に細長い丘陵上に鹿谷城跡はあるが、築城時期が今から600年ほど前の南北朝時代と言われるぐらいで、城主も不明だ。竹岡氏の城ともいわれているが、中世時代の文献にも、「往古城主姓名知人無し」(丹波志桑田記)とあるように古い時代からその詳細は不明であった。
宅地化により一部、切り崩されていたり、廃城後、畑などに使われていたりと、後世の地形改善の考慮が必要で実地調査によってもその全貌を明らかにするのは難しい。
現地 探索
真新しい集会所のほぼ真向かいに一段高くなった丘陵があり、そこが鹿谷城跡である。意外に簡単に見つけることができた。
荒れ果ててはいるが、ある程度、道は整備されている。しかし、廃城にされたのが五百年前としても整備されすぎているので、過去の城跡に繋がるとも思えない。
途中で石積みを発見。
城の石塁の跡の可能性もあるかもしれないが、築城時期が南北朝期と言われており、その時代にしてはこうした石塁の積み方には違和感がある。
後世のものと考える方が自然か。
当然、城跡とは無関係。中を覗いてみると長机が並んでいる。
きっと、地元の集会所かなんかに使われていたのが放置をされて廃墟となったのだろう。
しかし、外にはシイタケ栽培用?の木が並んでいる。誰か住んでたのか?
この廃墟の周辺は広い平地となっていて、曲輪であった可能性も高い。この廃墟の裏手には一段高くなっており、そこが主郭であると想像できる。
だが、木々の茂みは激しくそれ以上の捜索は難しい。また、堀切などのような跡も見受けられたが上にも書いた通り後世のものかどうかの判断ができない。
……ただ木々に囲まれて薄暗い森の中、廃墟があるというのは非常に不気味。
寒気を感じてきたので早々に退散。
総括
過去の文献にもほとんど詳細は書かれておらず、城主すらも不明。民家に囲まれていることからその土地の領主クラスが在住していたということは予想できるが、後世は畑に使われたり、現在でも集会所の建物が建てられるなど、あまり現地の人々にも保護されている様子はない。
それだけ歴史の早い段階で埋もれてしまったのだろう……。
栄華は夢幻の如く。邯鄲の夢也。
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