城跡シリーズ第三弾
前々回の太田城、前回の矢田城に続く城跡シリーズ第三弾!
今回の目的地は並河城!
前々回と前回は山城だったが、山へ登るのはイノシシに遭遇したりと危険を伴うし、特に冬も近づいてきたので最悪、遭難の恐れもある。
ということで、今回は山を避けて平地の城跡を探索することにした。いつものように亀岡文化資料館で城跡一覧を調査し、住宅地に存在する並河城を目的地にすることに決定!
並河城 概要
大井町並河。東と北に旧山陰道に接する要所に並河城が建っていた。城主は並河氏。子孫を辿ると桓武天皇の後胤相馬義胤の孫、相馬宗義までさかのぼることができる由緒ある家系である。
室町時代には、並河だけではなく、大井、土田、太田、金岐、宇津根、勝林嶋など現在の大井町の広範囲を支配していた。
戦国期には小田政権に恭順の意を示し、大井町の土豪たちを動員し明智光秀の下で丹波平定に協力をしたが、光秀の謀反後は明智方につき、山崎合戦にも参加している。その後徳川幕府下では、一国一城の制度の下、並河城は廃城となったが、同地からは生活用具が出土するなど廃城後も居住地として使用されていた形跡が残っている。
現在は由緒地として地元の人々に保護されている。
石塁の城 並河城
1989年から1992年にかけて亀岡市教育委員会により並河城の発掘調査が行われた。石塁に囲まれた並河城の全容が明らかになったのはその時以降である。
石塁が使われていた城では勝竜寺城が有名であるがそれと比較すると、石組みが稚拙であり、表面も整っておらず、技術的に造作が洗練されていない。また防御施設としての城というよりも、居住地として使われたいたよそが強いにも関わらず、東西24メートル、南北19メートルの大きさの曲輪に比して、それを囲う石塁の大きさが大きく、居住空間が制限されていたのではないかという指摘がある。
並河城跡は現在、法然寺の裏手にある。法然寺の無料駐車場に自動車を止め、探索を開始する。ついでに法然寺に参拝していこうと思ったが、門は閉まっていて中に入ることができなかった。
門の外から本堂を撮影。
竹林の中に……
法然寺の裏手へ回ると竹林が茂っている。
この中が並河城跡ととなる。
城跡に接して果樹園や畑が広がっている。教育委員会による発掘調査の対象地域外ではあるが、他よりも一段高くなっており、おそらく城域だったのではないだろうか。
なんとか内部へ入れないかと周囲を探索するも、入れるような場所は見当たらなかった。
遠巻きに城跡を眺めるだけで、内部へ入ることもできず、外からでは並河城の特徴である石塁を見つけることもできなかった。
だが、周囲では宅地開発が進む中、こうした竹林が広がっているというのは地元の人間がその土地を、切り開くことに抵抗があったということだ。
村々を治めていた並河氏の人望がうかがい知れるような気がする。
余談……
並河城跡を探索中何気なく、法然寺の敷地に立っている墓石を見てみると、そこには興味深い文字が彫ってあった。
大堰川事件……。一体どんな事件なのか。墓石に刻まれているということは、死者がでるような事件だったと予想できるが、殺人事件なのだろうか……。
この初めて聞いた不思議な事件を今後の調査材料にしたいと思いつつ、当地を離れるのであった。