太田城に続く好評(?)の城跡シリーズ第二弾!
前回、亀岡文化資料館にて亀岡市内にいくつもの城跡があることが判明し、それらをめぐるプロジェクトを発足することに決定。
前回はひえ田野町太田区の太田城の探索を行った。一号のヘタレっぷりを見せつけられたせいで、山中に踏み入ることはできなかったが、今回は一号もやる気十分。今度こそ本格的な城跡探索を行うことを決意して、平城ではなく、山城を探索することに。
そこで選ばれた城跡が矢田城! 城主は中沢氏。
矢田城は地理的にも探索しやすい場所で、亀岡文化資料館からも近いので探索には絶好の場所と判断。
場所は。府道6号線沿いで向かいにはサークルK、隣にはムツミ病院があり、亀岡市民にとってそれなりに通りなれた土地ではないだろうか。
我々調査員一号と二号はサークルKにて自動車を止め、そこから府道六号線を横断し、いざ矢田城跡が残るとされる丘陵へ向かっていく。
サークルKの駐車場から撮影。登山道らしきものが見える。その先の丘が目的の矢田城跡か。
奥に見えるのがムツミ病院。手前に広がるのが稲刈りの終わった田んぼ。亀岡の市内から少し離れると、ほんと田舎っぽい。
なんとものどか。なだからな斜面なので疲れることなく足を進められる。なんとなく張り合いのないまま進んでいくと、お堂発見!
弓矢の名人 那須与一 ゆかりの神社が亀岡市にあります
なんでもここは那須与一堂と呼ばれる場所だそうだ。
城を探してこんなものに出くわすとは意外! と驚いていた二号だが、一号から「いや、途中で看板あったじゃん?」とそっけない言葉が。
ああ、そうですか。見落としてましたよ。周り見てなくてごめんなさい。。。
ちなみに那須与一とは、弓矢の名人として有名。今からおよそ900年ほど前の、源平合戦の際、源義経に寄り従い平家討伐の従軍に参加していた与一だが、屋島の合戦の際に、平家方が船上から扇を掲げ、この扇に弓を射れる奴なんていないだろう、と挑発をしてきた。
その挑発にのって見事扇を射抜いて見せたのがこの那須与一だ。
歴史好きならまず知っている有名武将の一人。
この有名武将と、亀岡の那須与一堂との関係はというと……。
フムフム。
つまり、ここ那須与一堂は正式には法楽寺という名であり、陰陽師安倍晴明により建立され、本尊は阿弥陀如来。(映画で野村萬斎が安倍晴明を演じてたなぁ)
んで、源平合戦の時に、那須与一が亀岡の地を訪れそこで熱病に侵されるも、ここ法楽寺の阿弥陀如来の加護により病は見事完治したとういう。のちに屋島の戦いで扇を打ち抜いた時も阿弥陀如来の霊符を身につけていたとか。
あの有名武将もこんな亀岡の田舎と関係があったとは。やや感動しつつ堂内を見て回る。
キティちゃんが可愛い
ひとしきりお堂を散策したが、メインは城跡だ! お堂の背後にはまだまだ丘が広がっている。文化資料館で調べた地図によるとそこが矢田城の跡らしい。
どこか登れる道はないのかと探していく。
道のような、道じゃないような……。
完全に竹林と化していて、登れるような場所がない。一応通れる場所を無理に進んでいくが……。
竹に行き手を阻まれる。
しかし、土塁のような跡があるのでここが城跡の雰囲気を出している。
頂上は、下からも見えるのでそこが主郭になるのかもしれない。ここまで来たのならなんとか頂上まで登ってみたい。土塁を乗り越え山頂へ向かおう!
が、ここで一号がに突然の変異が!
「お腹痛い。。。もう登れない。。。」
ホンマか!?
またも山恐怖症ぶりを発揮して、夏休み明けの小学生のごとく突然の体調不良を発動して、登山は断念。二号一人だけで山頂へ向かうことに。
……仮病じゃないだろうね。
11月も後半、雪が降ってもおかしくない気温だが、道なき道を進んでいき、汗も噴き出してくる。下を見ると、腹痛のくせに平然と立っている一号の姿が。
意地でも上まで登って、何か見つけてやる、と決意する二号であった。
やがて頂上へ
服も汚れて、これ登りはいいけど降りるときに足滑らせたらケガするだろうなあとか思っていると、頂上が見えてきた!
萎えてきていた気持ちも昂り始める。
頂上は、やや平らな土地となっていた。広さもそれなりにあり、何らかの建物が建っていてもおかしくない様子だ。
竹ではなくほかの木が生えており、頂上だけ植生が変化しているようだった。
きっと昔はここに主郭があったのかもしれない。
土塁の跡に見えなくもない。
探索中に突如、茂みの奥から物音が聞こえてきた。慌てて音のしたほうを振り向くと、三頭のイノシシが飛び出してきた。先頭に母親らしいイノシシと、その後ろと子供が二頭ついて走っていく。
慌てた二号シャッターを押す!
……パニック中。
身の危険を感じ、慌てて下山をする。途中、足を滑らせながら、イノシシじゃなくてクマだったらヤバかったんじゃね? とか思いつつ、急いで降りる。
何とか無事、一号のもとへたどり着いたが
「途中でこけたやろ?」
とニヤニヤ笑いながら聞いてくる一号。
どついたろか!
というか腹痛はどうした!
一号のヘタレぶりにイライラしつつも探索終了。
とにかく山は深入りすると危険ということが分かった。今度からは山中へ分け入る時はクマよけが必須かもしれない。
矢田城跡は土塁らしきものと頂上の平地などからそれらしいのが見られたので満足だ。ここは、大阪へ通じる府道九号線を見下ろすことができる重要な地点だったのだろう。
重要だからこそ、跡が残らないように廃城にされたのかもしれない。悠久の歴史に心を泳がせながら、今回の城跡シリーズは幕を閉じる……。
衝撃の事実が
探索終了後、城跡の資料を読み返している、なんと思いもよらぬことが書かれているではないか。
この丘陵はかつては南北に550メートルほど広がっていたのだが、現在は北端と南端が開発され宅地となっている。また、我々が登った丘陵の頂上は、平地が広がっていたが、そこは江戸時代に畑として活用されていたそうである。
我々が土塁として認識していたのも後世の削り残しの可能性が高いということだ。
過去の文献にも、上矢田には城はないと明記されている。もし、城があったとしたら、丘の北端部分だそうだ。城山という地名が残っているのがそれを推測させるが上に書いた通り、住宅地となっているため調査は難しい。
実際に城があったかどうかは、今後の地表下の検証に委ねるしかない状況らしい。
ああ、我々の苦労は一体……。
城跡探索シリーズのつもりが、城跡とは無関係の場所を探索していたかもしれないのか……。