絶賛連載中 大堰川事件を巡るシリーズ。
前々回、事件発見編は☆こちら☆
前回 資料発見編は☆こちら☆
事件の発端
大正十四年(1925年)。
発端は、馬路村の護岸工事の入札からだった。
馬路村の大堰川の修復工事が決定された。請け負う業者は、今も昔も変わらない。地元への利益還元のため、地元の業者に請け負わせるのが常識であった。
地元、南桑田郡(現亀岡市)大井町並河の建設業者「片山組」は、以前からそうであったのように今回の修復工事も自分たちが請け負うものだと信じて疑っていなかった。
だが、いつまで経っても馬路村からは入札の公示や談合の通達も無い。それでも、片山組の組長、片山光次はいつか連絡があるだろうと焦ることもなかった。
大正十四年二月十六日。
突然、大堰川の河原で起工式が行われた、そこには片山と同業の八木町で建築業を営む梶松こと八木松之助が出席しており、彼が工事を請け負っていることが判明した。
片山は困惑した。習慣的に地元の自分たちの組が工事を請け負うことになっているといってもそれが正式に決まっているわけではない。暗黙の了解と思い、自分たちが請け負うと思い込みなんの行動もとらなかった自分たちも悪い。しかし、縄張りの違う八木が工事を請け負っておきながら一言の挨拶をしに来ないのは道理に反する。
また、片山が納得いかないことがもう一つある。
それは、八木と馬路村との癒着である。調べてみると「不正」が頭に浮かぶようなことばかりだった。
今回の業者選定は村長の一存で決まった。その業者とは馬路村、村会議員の浅田萬吉であったが、彼は村長のいとこにあたる。
その萬吉の兄の信太朗が実質的に工事を請けおい、彼らと深い関係にあったのが片山組である。信太朗は請け負った工事を片山組に下請けに出したのだ。
浅田萬吉、信太朗兄弟らは村長のいとこという立場を利用して工事を二万円(現在の価格で約5,000万円)で請負、それを自分の意のままになる片山組に下請けに出したのである。
片山光次はそれでも、穏便に事を済まそうとした。工事の一部の孫請けをさせてもらえるよう、八木に交渉に行った。だが、交渉は決裂。八木は片山の使者にいくらか包み金を渡してことを済まそうとしたが、その中身は非常に少なかった。そのため、使者らは受け取った金をたたき返したことから騒動が大きくなった。片山の使者は袋叩きにあい大八車に括り付けられて帰ってきた。
片山はこれで引き下がっては自分の名折れとなると思い京都千本三条に組を構える任侠、千本組に仲介を依頼した。
なお、当時の建設業者はいわゆるやくざが経営していることが多く、八木組も千本組も土木請負業を営んでおり、二つの組は兄弟分の契りを結んでいた。
仲介を依頼された千本組だが、任侠の世界にとってけんかの仲裁は非常に重要なことだった。組同士のけんかを仲裁した数で組の格が決まるといっても過言ではないほどだ。仲介を依頼されて断ることはまずない。
下っ端同士の喧嘩でも、ほかの親分の仲介が入り大規模なけんかには発展しないのがやくざの常だった。
さて、千本組はまず使者を立てて八木町の八木組のもとを訪れさせた。しかし、話はこじれたため、使者はけんかを仕掛けたが多勢に無勢。使者は額を割られて帰ってきた。
こうなると千本組も引き下がれなくなった。
当時の千本組の組長の名は笹井静一。彼の親で先代の組長であった笹井三左衛門はこの一連の話を聞いて激怒した。
御年70歳となる昔気質の三左衛門は、片田舎の組にけんかの仲裁を断られ組の面目をつぶされたのが許せなかった。三左衛門は素人相撲で鍛えた腕っぷしを持っていた。自分一人で八木組と話をつけてくると言い張り周りが引き留めても聞かない状態であった。
そこへ、笹井家の三男坊でアナーキスト(無政府主義者)で映画人の笹井末三郎が現れて三左衛門を説得した。
「まずは別の使者を立ててお互いの顔が立つように交渉をしよう」
皆が賛成をし、大親分の三左衛門も渋々納得した。だが、だれを使者に立てるかが決まらない。普段は命知らずといわれている組員たちだが、死者という名のいけにえというのは誰もが分かっていた。
もはや交渉の段階ではなく、使者に立っても八木組に殺されて、全面戦争の口実に立てられるだけだ。使者ではなく鉄砲玉ということが分かっているだけに誰も使者になることを受け入れない。
そんな折、手下の一人が報告にやってきた。八木組と関係の深い、今出川の土木請負業者がけんかの助っ人を集め始めたという情報が入った。
八木組はけんかに向けて準備を進めていたのが判明した。ここにきて引き下がることはもうできない。
まず千本組はほかの京都の大きなやくざの組の動向を調べた。八木組に加担して動く組がいるとなると、千本組とその組との戦争となってしまう。
いくら千本組でもそれは避けたかった。
調査の結果千本組の敵対している「いろは組系列」の組が動いている気配はなかった。
組員たちは八木組を力づくで潰すためけんかの支度を始めた。
亀岡へ
二月二十二日、午後八時、二条駅に千本組のけんか部隊80人が汽車に乗って亀岡へ向かおうとした。だが、すでに物々しい雰囲気に警察がこの騒動を察知しており、二条駅や花園駅、嵯峨駅は封鎖されており、千本組の部隊は警察官約二百名に取り囲まれ強制的に解散させられた。
鉄道だけではなく、老ノ坂も警察により封鎖されており、二十名ほどの千本組の別部隊がトラックにのって亀岡に向かっていたが警察の検問にあい、小競り合いとなったため、二十名全員が逮捕された。
やくざ同士の抗争を防ごうと警察は厳重警戒をしいていた。
千本組の事務所はすべて警察に監視され、亀岡へ出動など難しい状態となっていた。
そのため一計を案じた。
いったん、組事務所に集まっていた子分たちをすべて解散させて事務所の電気もすべて消した。
警察たちはその動きを見て、けんかをあきらめたものと思い込み、事務所の監視を解いた。
だが、実際には子分たちには嵯峨の毘沙門堂に集まるように指示を出していた。
警察が油断をした隙に組員たちは夜な夜なこっそりと抜け出て嵯峨に終結をした。
嵯峨には千本組の有力の舎弟が住んでおり、亀岡に近いという立地条件もあることから集合地点にちょうど良かった。
結集したのは全部で七十名ほどだった。参加したメンバーの一人はのちに「小便が漏れるほど怖かった」と述懐した。
やくざでもこれほどの命のやり取りをすることは稀であった。
二月の深夜のこと。まだ冷え込みはきつく雪がちらついていた。一行は薪で石を温めると、それをぼろ布で巻き腹に抱えて暖を取った。
雪を避けるためにむしろを頭からかぶり、山陰線の線路に沿って嵯峨から亀岡へむかい一列で歩き出した。
時刻は午前三時。深夜で足元もおぼつかない。暖を取るための石もすぐに冷めた。この後の命のやり取りを考えると、身もすくむ。
七十名は各々、様々な思いを頭に思い浮かべ行進を続ける……。
誰かが、歌を歌いだした。「テロリストの歌」という当時のアナーキストが好き好んで歌った歌だった。
そのほか、労働歌や行進曲を歌い鼓舞をしながら歩いた。
嵯峨から歩き出しておよそ六時間後の午前九時ごろ。大井町並河の片山光次の家にたどり着いた。
片山組の総勢が三十名ほど。千本組と合流して、百名を超える人数となった。加えて、午後二時ごろ、ようやく閉鎖の解けた汽車に乗って千本組の子分五十名が亀岡駅に到着した。
計、百五十名が意気揚々と、八木組のいる馬路村へ向けて行進を始めるのだった。
一方、八木組の動きはというと、千本組に対して非常に緩慢であると言わざるを得なかった。
千本組の使者を袋叩きに合わせた時点で、八木組と千本組との抗争は避けられない事態であるというのは、だれの目にも明らかであった。
だが、八木組は自分たちの子分筋にあたる下請けや孫請けの土工関係者に助っ人を頼むばかりで、親分筋の「いろは組」には何も連絡をとっていなかった。
いろは組の助っ人なくして、八木組程度の力では千本組にかなうはずもない。なぜこのような無謀な戦いに挑んだのであろうか。
おそらく千本組が動くはずはないという楽観的な考えがあったのかもしれない。
千本組が本格的に子分たちを集め抗争の準備をしていると知り、八木組もいろは組に連絡を取らざるを得なくなった。
しかし、連絡は衝突の直前であった
。
千本組の七十名が徒歩で片山の家にたどり着き小休止をとっている午前十一時ごろ、八木からいろは組組長の長谷川に初めて連絡がいった。長谷川はその知らせを聞いて腰が抜けるほど驚いたという。
なんとか八木にけんかの回避を命じ、千本組の組長に面会を求めた。
千本組といろは組は長年敵対関係にあったが、ここ二十年ほどは友好関係にあった。いろは組の長谷川も、千本組とはことを荒立てたくなかった。
しかし、長谷川がけんかの回避に奔走しているころにはすでに、千本組と八木組は馬路村の大堰川を挟んで一触即発の状態にあった。
二月二十三日に起こった千本組・片山組と八木組との抗争事件である大堰川事件はたった十五分ほどで終わった。
午後三時、双方はにらみ合いを続けていたがだれかが「やっちまえ」と叫んだ。その叫び声が合図となった。双方が土手を駆け下りて白刃を振りかざし、ブローニング拳銃をぶっ放し大乱闘となった……。
この事件での死亡者はただ一人だけで、拳銃で胸を打たれた即死した。犠牲者は千本組方の中村惣右衛門。八木の子分、小早川民蔵の撃った猟銃の玉で死亡した。小早川は事件後、逃亡先の宇和島で逮捕される。
ほか、刀剣、こん棒による負傷者が八十九名。重傷者が三十一名。拳銃やライフルによる負傷者は死亡したもの以外一人もいなかった。
勝負はほんの十五分ほどで決した。千本組・片山組の勝利で終わった。
千本組は月読橋の上で警察の探索から逃れるために四方に分かれたが、京都から駆け付けた警察の捜査は執拗で、結局主要なメンバーはすべて逮捕されることとなった。
浅田家襲撃事件
二月二十四日午前一時。千本組の残ったメンバーが馬路村の浅田信太朗の家を襲撃した。今回の事件の発端となった工事を請け負った村会議員の兄である。
浅田信太朗は警察の事情聴取のために自宅にはいなかった。
千本組の襲撃者たちは、浅田家で暴れまわり家財道具を叩き潰して回った。
「警察に通報するならしろ。俺たちは十年かかろうと二十年かかろうとこの恨みは忘れない。かならず浅田一族を根絶やしにしてやるから楽しみにしておけ!」
と、捨て台詞を残して去っていった。その際、炬燵をけったために火が障子に燃え移り、あわや火事というところを警戒中の警察が見つけて事なきを得た。
浅田一族はこのセリフのために恐れおののき警察に保護を頼んだ。この事態を重く見て、亀岡警察署、園部署、京都府警、消防団在郷軍人青年団などが、馬路村の警護に当たることとなった。
事件後、千本組の組長と、いろは組の組長が警察に出頭して話し合った。ここで事件の幕を閉じるために和解の道を講じた。
話し合いの結果、今回の事件の責任は全面的に八木組にあり、兄貴分にあたるいろは組は関与していないこと。警察は公式発表で、馬路村村長の浅田和一郎の請負業者選定の発注手続きの不備が原因による事件とすることで話は収まった。
千本組側は、大堰川での事件や、二条駅で警察に解散を求められたときに公務執行妨害、事件後の浅田家襲撃などに関わった人間などを含め、百七十二名が逮捕された。
八木側は三十四名が逮捕された。総勢二百名以上が逮捕されたのはやくざの抗争史上最大であった。
なお、千本組は、逮捕された組員ひとりひとりに弁護士をつけ、豪華な弁当を差し入れ続けた。未決拘留中はそろいのゆかたを差し入れるなどして、千本組の財政も相当悪化したという。これにこりて、千本組はけんかを一切禁止するよう命じたという。
次回、大堰川事件に大きくかかわった千本組の正体に関して説明の予定。