前回、亀岡文化資料館へ赴き、調査場所の探索を行ってきた。そこで興味深い内容が。なんと亀岡には27もの城跡が発見されているということだ!
一国一城の制度が出されたのは江戸時代でそれ以前は、一つの国に複数の城があって当たり前だったのだが、そんなにたくさんもの城跡が存在するとは我々調査員もびっくり。
亀岡といえば亀山城が有名だが
(亀岡の名称が使われたのは明治以降。改称にあたって紆余曲折があったとかなかったとか。それはまた本サイトで取り上げよう!)
それ以外の小さな誰にも知られていないような城跡を調査していこうというプロジェクトが発足することに。
亀岡文化資料館から太田城跡、現松井八幡宮探しへ
太田城はひえ田野町太田区に存在した城で、明智光秀の丹波平定の際に攻められ廃城にされたとされる。現在の太田城跡には松井八幡宮の社殿が鎮座しているという。
城主は松井肥後守宗治。太田区には現在も多くの松井姓が存在しており、当地の有力領主だったのだろう。
また同地区に龍潭寺という臨済宗妙心寺派の寺院があり、京都市の龍安寺、南丹市の龍興寺とともに三龍寺と呼ばれる。この龍潭寺も松井氏が開山に関わっており、有力領主であることの証拠となっている。
江戸時代にも幕府領であった亀山藩の家臣に松井姓の名前が複数見え、亀山城の城域に居住地を与えられるなど、重要な地位に就いていたようだ。現在の太田区に在住する松井氏もそれらの子孫になるのだろう。
そんな松井氏の居城とされる太田城探しを、城跡シリーズの一発目にもっていくことに決定。
文化資料館の資料で最低限の太田城と太田区についての知識を得て、さっそく出発。
市街地を離れのどかな田園地帯へ
池の向こうが目的の太田城跡、現松井八幡宮か?
亀岡ひえ田野付近に到着、そして山城を探索
それらしき場所へは到着したが、地図にも松井八幡宮は載っていない。どこか分からない。
・亀岡市に来たら必ず行っておきたい、癌封じなどでも人気の「ひえ田の神社」
しかし、車では狭い道ばかりで駐車する場所もない。やや離れた龍潭寺に車を止めて探索拠点にすることに。
ここ龍潭寺も亀岡氏指定文化財を複数有す、見所ある寺院のひとつだ。また別記事で取り上げたい。
とりあえず、龍潭寺からそれらしい場所へぶらぶらと歩いていく。
のどか。
途中には、お地蔵様か道祖神か?真新しいお供えの花もあり、信心深い地区であることがうかがえる。
おっ!
それらしい灯篭と、山へ続く道を見つけたので入ってみる。
ちょっとドキドキしながらも山のふもとを進んでいく。
なんの案内もないがここが松井八幡宮、元太田城跡の入口だ。龍潭寺から歩いて十分ほどの場所で以外に簡単に見つけることができた。
寂れてはいるが元お城の雰囲気も
石段を上ると鳥居も登場。
途中の石段も曲がりくねっていた。防衛上の意味があるのだろう。
石段を登り詰めると、そこには社殿が。朽ち果ててるなぁ・・・。
地元の人も参拝に来ないのだろうか。
明智氏に敗れた松井氏の居城だったのだから、仕方がない。敗者の歴史は朽ちて埋もれていくばかりか。
お賽銭をあげ過去に激戦を繰り広げたであろう兵士たちの霊に祈りを捧げつつ探索を続ける。
周囲には不自然なほど広い平地があったりと、何らかの建物が建っていたであろう場所もある。堀切のような溝があったりと、そこが昔は城であった痕跡が残っていた。
資料館の資料によると太田城はそれなりの広さを誇っていたそうで、山中へ分け入りその痕跡を探そうとしたのだが、ここで問題発生。
実は、調査員一号は山恐怖症の持ち主だったのだ。
なんでも数年前にマツタケ狩りに山へ入り遭難をして以来極度の臆病になった。その時は数時間山中をさまよい無事脱出できたそうなのだが、その時のトラウマを蘇らせたのか、山中の捜索を頑なに拒否。
道に沿っての登山ならともかく、道なき道を行ったら遭難するぞ! という遭難体験者の助言?もあり、なくなく下山することに。
こんなことで、今後の城跡探索は大丈夫なのか?
さて、そんなこんなで太田城跡、現松井八幡宮の探索を終了。こんな誰も知らないところに数百年前の歴史を感じさせる跡が残っているのが面白い。
歴史とは本の中の出来事ではなく、身近なところに存在しているのだと気付かされてくれる。
今度の城跡探索は調査員一号の恐怖を取り除きもっと山中へ分け入ってみたいと思う。
see you next agein…
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