亀岡市、千歳町は今では田園の広がる亀岡の片田舎でしかないが、かつては丹波の中心地であった。
そのため出雲大神宮や千歳車塚古墳、愛宕神社など多くの寺社旧跡が残っている。
そのようなかつての繁栄の面影を残しているのが丹波国分寺である。
場所は千歳町国分桜久保。「国分」と地名にも残っている。
丹波国分寺は、天平十三年(741年)詔勅により建立が開始された。だが、経済的な理由から建立は予定通りに進まず、
天平十九年十一月、朝廷は勅使を丹波に派遣し、三年以内に伽藍を完成させることを命じている。
建立が完了したのがいつかははっきりとは不明である。
その地は、七谷川によって形成をされた標高百五メートル前後の台地上に位置する。そこからは周囲を見下ろすことができた。
堂々とそびえたつ金色の国分寺は首位の住民に王権の権威を標榜するにふさわしかったであろう。
しかし、そんな国分寺も平安時代ごろになると衰退の兆しが現れる。平安時代の初期から中期にかけて、堂々と聳え立っていた塔や金堂は廃絶した。
平安後期には再建されるも、金堂は鎌倉時代末期に再び焼失した。
その後の中世の歴史は明らかにはなっていないが、明智光秀の丹波侵攻の際に、亀山城築城のため国分寺の建物を破却し用材として持ち去ったともいわれる。
その後、元禄年間(1688~1704)に再興され、さらに安永年間(1772~1881)に護勇比丘が現在の本堂を建立し現在の浄土宗、護国山国分寺として今に残る。
かつての国分寺は、220メートル四方の寺域を有する大規模な寺院ではあったが、現在では小さなどこにでもあるようなお寺へと縮小してしまったのが残念でならない。
かつての繁栄も今は発掘跡がかろうじてそれを指し示すばかり。現在の繁栄も、数年後にはどうなるか……。春の夢のごとし。
京都府亀岡市千歳町国分桜久保25