休日のドライブ中に
2018年1月20日。
土曜日。
休日のとある一日。我々調査員はいつものように、車を走らせていた。特に目的があるわけでもなく、ただ休日の暇つぶしとしてドライブをしていただけだった。
亀岡市内を少し離れたひえ田野町佐伯。近くには、ひえ田野神社や亀岡市民運動公園や亀岡プールなどがあり、秋にはコスモス園の開園、国の無形民俗文化財の佐伯灯籠祭など、観光客、地元の人、問わずそれなりの人が訪れる町だ。
そんなひえ田野町佐伯をドライブしていると、ふと目につく人影が……。
いくつかの交差点で、佐伯遺跡説明会の案内板を持って立っている人がいた。興味の沸いた我々は車を止めて係員に話を聞く。
――説明会って今日あるの?
――だれでも参加できる?
――無料?
すべてにYESと答えてくれた優しい係員の方。駐車場までの地図ももらい、説明会に参加することに決定し、自動車を走らせる。
場所はこちら
古代寺院の発見
ここからは説明会で受けた説明と、もらった資料および撮影した写真でまとめていきたい。
まず、佐伯遺跡が発掘された経緯だが、もともとは農地の再整備に伴う区画整理を行っている最中に遺物が発見され、本格的な発掘調査が行われることとなった。
当初からその辺りは佐伯遺跡として大規模な集落があったものと想定はされていた。今回出土した遺物は奈良時代ごろのものであり、当時は貴重品であった瓦(それも寺院用と思われるもの)や、仏教の信仰の対象とされる瓦塔などが出土されたことから、有力な寺院跡であるものと思われる。
また、上記の図のように亀岡市内には国分寺をはじめ多くの古代寺院の存在が確認されているが、ひえ田野町周辺の、亀岡市東部は空白地帯のように有力寺院は見つかっていなかった。
ひえ田野町は古代には京都へつながる山陰道が整備されており交通の要所であったにもかかわらずそうした寺院が無いとは考えにくかった。
今回、こうして寺院跡が見つかったことで、亀岡市ひいては京都の仏教の普及に関して考えるうえで新しい資料として使われることとなるだろう。
発掘場所は
上記の通り、佐伯遺跡は広範囲に広がっている。
今回説明会が行われたのはc-1とc-5地区だ。東側に広がっているdやe地区も現在は発掘中で、そこからも多くの遺物が発掘されているようである。
c-5地区からは瓦が大量に出土したり柱の穴の跡が見つかるなど、寺院が建てられていた可能性が高い。また今回の発掘場所の西部や北部にも建物が広がっていた可能性はある。しかし西部には竹藪が、北部には御霊神社があり、発掘することができなかった。そのため、今回見つかった寺院がどれぐらいの規模の大きさだったかということなどは、はっきりとは分からない。非常に残念である。
↑写真が瓦が大量に見つかった場所で、まだ瓦が土中に埋まっている様子がよく見える。しかし、この先は竹藪で発掘ができなかったのだ。
土中の瓦。おそらくはこの近くに瓦が使われ建物(寺院)があり取り壊しの際にここに廃棄されたのであろう。
C-1区
では今回C-1区より出土された遺物や遺構についてまとめてみたい。
軒丸瓦
大量に土中から発見された。特筆すべき点は京都府北部の綾部市の綾中廃寺で見つかったのとほぼ同じ型ということ。
つまりは同じ職人が綾部と亀岡の寺院を作成したということだ。これは、両方の土地の有力者同士になんらかのつながりがあったため、同じ職人を雇うこととなったと思われる。血縁者同士であった可能性もあるだろう。
瓦塔
屋根の一部であるが瓦塔も出土された。これは仏塔を模した土製品。大きさはおよそ1m20cmほど。
本物の塔の代わりに作られたとか、信仰の対象とされていたとか言われているがはっきりしたことはわからない。
瓦塔は東日本で出土するのがほとんどで、全国で250例ほど発見されてはいるが。群馬、埼玉、千葉で六割、東日本で8割を占める。
京都では今回が3例目であり、非常に珍しいものである。
掘建柱塀穴
きれいな四角形の穴で、穴の深さや間隔からしても相当な規模の掘建柱塀が建てられていたのがうかがえる。重さ的にも瓦葺でも十分に耐えられる。
なお、塀の跡なので普通に考えればどこかで直角に曲がっていなければおかしいのだが、今回は南北に一直線に並ぶ穴しか見つかっていない。
おそらくはもっと北にも広がっているのだろうけれども、発掘現場の北側は御霊神社の敷地となっている。こちらも奈良時代に創建されたもので、つぶして発掘するわけにもいかない……。
ために、どれぐらいの長さの塀かは不明というわけだ。
竪穴建物
古墳時代後期の竪穴住居の跡。4つほど確認されているが、すべてが同時期に建てられたわけではなく、つぶれてはその後に新しく建てられて、と作られた模様。住居内にはかまどの跡も見つかっている。
また東側の山の手には佐伯古墳と呼ばれる古墳も確認されており、この周辺に住んでいた人々が、古墳に埋葬されているのではないかと思われる。
掘立柱建物
四角形に囲まれた柱の跡。何らかの建物が建てられていたことが分かる。
五メートル四方で、柱の穴や形などからほかの遺物とは時代は違うかと思われるが詳細は不明。
C-5区
続いてC-5区で発掘された遺物に関して。
こちらでは溝が二つ見つかっているが溝1からは何も発見されなかったが、溝2からは様々なものが発見されている。
手間が溝1。奥が溝2。
溝に関してはそれが人工物か天然かははっきりとはしない。ただ、幅もまちまちで方角もきちんと整えられて掘られてはいないので建物の区画などに使われていた溝ではないとは予想できる。
下駄、皿など木製品
普通古代の木製品は腐って朽ちてしまい出土されないものだが、今回は溝の中で水につかっており腐食は免れた。
写真ではわかりにくいが、墨書された土器や木簡も見つかっている。平安時代前期のものと考えられているが、当時は文字を書くことが一般的ではなく、公的施設や寺院以外で文字を書くことは稀であった。
そのため墨書された土器や木簡が見つかったということは、近くに公的施設や寺院があったことの証明でもあろう。
木簡はいくつか見つかっておりそれぞれ「福」「×益×」「田屋」などの文字が書かれていた。
「田屋」は前後の文字が分からないが、農業用の施設に使われることの多い文字のため、そうした施設があったのではないかと思われる。
ほかにも桃の種が数百個近く見つかってもいる。
まとめ
今回、こうして多くの出土品を見ることができた。最初は説明会に参加するかどうかは迷ったのだが、結局は参加することで地元の古代史が少しでも理解することができて大変意義深い一日となった。
1月の半ばという最も寒い時期にもかかわらず多くの参加者がいたことも驚きだ。
混雑しすぎて展示物もゆっくり見れなかったり。
古代史というのは謎のヴェールに包まれているからこそ、人々を魅了する何かがあるのかもしれない。
今回の佐伯遺跡は、農地の区画整理によって発見されたもので、偶然それらが発見されなければここに寺院があったであろうことなど、誰にも知られることもなかっただろう。
そして今回の発掘現場は調査が終了したら、農地として使われるために埋め戻されるという。佐伯遺跡の古代の歴史は再び土中へと姿を消すのだ。
ここ以外でもそうして地中に人知れず眠っている古代の謎があるだろう……。
我々はそうした古代史の歴史という大地に足を乗せ、生活をしているのだと思うと感慨深いものがある。
最後に、素人丸出しの質問にも懇切丁寧に答えてくださった埋蔵文化財調査研究センターの方々には厚くお礼申し上げたい。
係員の方々お疲れさまでした。