ひっそりとたたずむ頼政塚
国道九号線を京都方面へと走り、市役所を過ぎて2キロほど走るとその名もずばり「頼政塚」という交差点がある。ここを西側へ曲がってしばらくいくと信号のある交差点に着く。ここを右折してすぐのところにつつじが丘小学校があり、そこに隣接している小高い丘となっているのが頼政塚である。
塚へと上がる階段は住宅街の中にひっそりと存在している。意識して探さないと気付かないかもしれない。駐車場もないので車で行くと路上駐車になってしまうので注意が必要だ。
登り道は途中までは整備されてコンクリートの階段を登っていける。途中では金網の向こうの小学校のグラウンドが見える。
途中では亀岡の市花、つつじがきれいに、だが佇むように咲いている。
そもそも頼政とは
頼政こと源頼政。平安時代末期の武将で、源平合戦の口火を切って挙兵したのが源頼政である。しかし結局は宇治川で平氏と戦い敗れ戦死した。その首は家臣の手により、この亀岡の地へと運ばれて埋められたのだ。なぜ亀岡かというと、頼政塚のある矢田という土地が頼政の所領だったからである。
また源頼政で有名なのは鵺(ぬえ)退治である。夜な夜な宮中に現れる鵺という化け物を弓で射殺したのが頼政である。
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なお、この源頼政の子孫に、太田氏や松井氏がいる。この頼政塚は安永8年(1779)に末裔の松井宗安が建立したと言われている。
松井氏はひえ田野町太田区に所領を持っていた豪族であり戦国時代には丹波平定のため侵攻してきた明智軍に太田城にこもり抗戦をした。
その太田城は明智に破却されたが、城跡に松井八幡宮が建てられ、現在も子孫である松井氏たちが守りつづけている。
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土地の産神を祀る石碑
しばらく登ると、木でできた簡素な鳥居が見えてくる。その奥には立派な石碑が建っている。
自然石をそのまま使用したようなその石碑の表面には「大地主大神」と刻まれている。
その土地を守る地主神なのだろう。あまり参る人も少ないだろうこのような地に人知れず祀られているのはなんとなく悲壮感がある。しかし、この石碑の背後からは亀岡の盆地が望見できる。
知る人は少なくとも、ここの地主神は亀岡を見下ろし、見守っているのだろう。
目当ての頼政塚へ
さて大地主大神の石碑を横目にさらに高みへ登っていく。
途中の黒いビニールで覆われている場所は、近所の農家さんの土地だろう。中ではシイタケか栽培されているようだった。
シイタケ畑を超えると、とうとうお目当ての頼政塚へと到着する。
が、ここへ来たのは夕方の五時ぐらい。ちょうど西日のせいで逆光となりうまく写せていないところがあるのでご了承いただきたい。
石碑の表面に刻まれた文字は「従三位源公之墓」
由来の書かれた看板も建てられている。
周囲には「霊体法身清浄菩薩」と刻まれた石碑がずらりと頼政の碑を取り囲んでいる。その雰囲気は少し不気味だ。一部の界隈では心霊スポットとして有名だそうだが、それも少しうなづけるかもしれない。夜に来ると頼政の首が埋められているという伝承と、この石碑の立ちながぶ雰囲気からゾッとするのは分からなくもない。
また、ここからは大地主大神の石碑の場所よりも一段高いので、さらに亀岡市街が一望できる。なかなか絶景で亀岡の中心地からも近いので亀岡のパノラマ風景を見たい人にはお勧めのスポットかもしれない。