絶賛連載中 大堰川事件を巡るシリーズ。
第1回 事件発見編は☆こちら☆
第2回 資料発見編は☆こちら☆
第3回 事件の真相編は☆こちら☆
突然の連絡
大堰川事件に関しては書籍、新聞等で調査を終えホームページ上に記事をまとめたので、あと一回ほど千本組に関しての記事を書いて終了しようと思い、記事の下書きを書いていた時だった。
突然、当ホームページの読者からメールがあった。
「大堰川事件の記事を興味深く拝見させていただき……」
読者からの反応があるというは非常にうれしい。しかも褒めてくださっているのでなおさらだ。
こんなつたないホームページを読んでいただき、わざわざ連絡までしてくれるとは、と喜びながらそのメールを読み進めているとなんと驚きの事実が書かれていた。
「実は私は大堰川事件の関係者でして……」
えっ!
本気で驚いた。
まさか関係者が現れるとは思ってもいなかった。事件が起こったのは大正十四年。今からおよそ百年前の出来事だ。
事件の記事を書く際には関係者が現在もいるかもしれないことを考えて偽名を使って書くことも検討したが、もう歴史上の事件といってもおかしくないだろうし、あえて実名で記事を書いた。
もしかして記事の内容に気を悪くしてメールを送ってきたのではないかと、少し不安を覚えたが、メールを読むとそうではなさそうなことが分かった。
仮にこの事件関係者の方を「Zさん」と呼ぶことにする。
Zさんは当然事件の時には生まれてもいなかった。だが、家族親類からは「かつてには何か事件があった」ということだけが伝えられており、それが具体的にどのような事件かというようなことは知らされていなかった。
今回、我々のホームページを見て初めてその事件の概要を知ったのだという。
Zさんは改めて親類にその事件の真相を尋ね、我々が調べた事実と相違がないことを確認し、また補足的な内容も聞かされたという。
そしてZさんは自分が親類から知ったことを我々に教えること、また我々が知っていることでまだホームページに書いていないことを教えてほしいとのことで、一度会いたいと申し出てきたのであった。
思いもよらぬ展開ではあったが、断る理由もなく書籍などにはない貴重なお話が聞ける、思ってもいない機会。
我々かめじ~んとひごのかみはスケジュールを調整し、二人でZさんと出会うこととなった。
3人での会合
休日の夕方。
あるレストランでZさんと食事をしながらの会合を開催した。
Zさんは物腰も柔らかく、とても親切な方であった。我々よりも年上ではあったが、とても丁寧に話をしていただけた。
Zさんから聞いた、大堰川事件の補足は以下の通りであった。
事件の発端
大堰川事件は、大堰川の護岸工事の発注のいざこざが原因で起こった事件である。工事を地元の業者に発注をせずに、村会議員と関係の深いよその土地の業者に発注をしたことが発端となる。
これだけ書くと、政治家と業者の癒着のように思われるが実態は少し違うとのことであった。
もともと建設業者はやくざと非常にかかわりが深い。土工作業員などを大々的に調達できるのはやくざのようなコミュニティがないと難しかった。
そしてやくざは工事の仕事を取ると、建設業者にその仕事を受け渡す。仕事をもらった建設業者はやくざにいくばくかの謝礼金を支払うというのは半ば常識となっていた。
大堰川事件はそんな常識を取り払おうと考えたために起きた事件だったのだ。村会議員の浅田氏はやくざが仕事を取り、それに謝礼金を払い仕事をもらうという非民主的な旧態依然としたシステムを打破したいと考えた。
そのため片山組という地元の業者への発注を行わず自分と関係の深い八木組へ発注を行った。やくざと公共工事との癒着をそうしてなくしていこうとした。
だが、それに対して片山組が道理に反する、と怒り大堰川事件へと発展するのであった。
大正十四年という時代に、やくざを公的な場から排除しようとした側と、旧システムを維持しようとした進歩派と保守派の戦いとも言えるものだったのかもしれない。
事件後
事件後、千本組率いる片山組は上記のようにやくざを締め出そうとした浅田家を襲撃した。それは前回の記事にも書いた。
「かならず浅田一族をねだやしにしてやるからな!」
と脅し文句を残された浅田家はどうなったのか。
浅田家はしばらく襲撃を恐れて警察に頼ることとなった。しかし、七年後に日中戦争勃発。十七年後には太平洋戦争勃発。と日本国中は動乱に巻き込まれていくこととなる。
戦時中に動員などで片山組と浅田家との確執どころではなくなってきた。
戦争終結後はすでに代替わりもしていた。かつてほどの恨みを抱く人は少なくなっていただろう。
そして、戦後。
混乱の亀岡、京都を復興するため亀岡の土木建築業者は統合が命じられた。建築会社はすべて統合し命令系統を一本化し市主導のもと復興を目指すこととなった。
それが「南桑土木建築会社」である。この会社は現在も存在している。
この南桑土木のリーダーとなったのが浅田家の長であった。浅田家は建築会社を営んでおり、警察とも関係が深かったことから選ばれた。この統合された組の中には片山組も含まれていた。どのような感情を抱いていたかは分からないが、統合の時には問題は起こらなかった。
こうして片山組浅田家の両者のわだかまりは和解とまではいっていないのかもしれないが、混乱の日本を共に乗り越え、ともに復旧させていこうという想いの中で自然に消滅したのであろう。
そして彼らの建築会社の努力のもと、現在の復興した亀岡の地が存在するのである。
大堰川事件がなければやくざがもっと役場と癒着をしており政治は腐敗していたかもしれない。浅田家の警察との関係も深くならず南桑土木の統合がスムーズに行われなかったかもしれない。
大堰川事件は多くの血が流れた忌むべき事件かもしれないが、歴史の一筋として現在に繋がる一つの礎となっているともいえるかもしれない。
最後に
勝手に記事を書いたのに気を悪くするどころか
貴重なお話を聞かせていただき、今回の話の掲載の許可をしていただいたZさんに多大な感謝を申し上げます。