仏教伝来
日本への仏教伝来は諸説ある。538年とも、552年、あるいは522年など正確な年月は特定されていない。
しかし、仏教の伝来が日本の歴史に大きな変化をもたらしたのは紛れもない事実である。大陸からもたらされた新宗教は渡来人の間で私的に信仰されてきた。
だが、もともと日本で信仰されてきた神道とは大きく違い、教義体系が成文化されており、利益をもたらされるものとして次第に国家中枢へと浸透をし始める。
特に、高官の位についていた渡来系の蘇我氏と深い結びつきにあった推古天皇が即位することで、飛躍的に日本全国へと仏教が広まることとなった。
594年には摂政の聖徳太子が仏教興隆の勅を発し、有名寺院が次々と建てられることとなった。
645年、大化の改新が勃発。渡来人で仏教布教の中心的役割をなしていた蘇我氏が没落することとなった。しかし大化の改新後、実権を握った中大兄皇子は仏教の迫害をすることはなかった。
壬申の乱の後、即位をした天武天皇も従来通りに仏教の興隆を推進した。官寺や氏寺の建立は盛んにおこなわれ、特定の経典の普及に力がそそがれた。
その経典は金光明経と仁王般若経であった。諸国で両者の読経が恒例化し、それらを祀る寺院の建立が行われるなど諸国に仏教が浸透をしていく。
これら仏教は、統一国家を作っているうえで都合のいい宗教であった。日本古来の神道とは違って、教義体系は成文化され、画一的な思想の普及が可能だった。思想的な支配の強化にちょうどよかった。
仏教と神道
日本古来の宗教として神道がある。仏教伝来時には神道を信仰する中臣氏、物部氏に対して仏教を信仰する渡来系の蘇我氏の争いが繰り広げられた。その争いは蘇我氏が勝利するのではあるが、教義的な面では二つは同一的にみられることは珍しくなかった。
後年、仏教の仏は神道の神が姿を変えて現れたのだと考える本地垂迹説が唱えられるなど、その土壌はこの時代からできていた。
基本的に仏教は国家鎮護の宗教といわれるが、実例を見てみるとそうとも言えない点がある。
飢饉や天災など国家的な厄災に襲われた時には、神道が用いられることがほとんどであった。しかし、天皇や政府高官などの病気平癒の祈願などに対しては仏教が用いられた。
社会全体の安寧に対しては神道が、個人的な問題に対して仏教が用いられ、両者はうまく共存をしていた。
亀岡と仏教
亀岡、丹波地方への仏教伝来はいつだろうか?
はっきりとした日時は不明ではあるが、丹波地方には渡来系の秦氏が古くから居住していたのが確認されている。
622年、山城の国葛野郡に秦氏により広隆寺が建立される。また同様に秦氏の祖神、大山咋神(おおやまくいのかみ)を祀る松尾神社も建立される。
この秦氏は丹波にも古くから居住しており、同名の松尾神社は旭町や西別院町にも存在する。
彼ら渡来人の秦氏を通じて丹波地方へと仏教は伝来したものだと思われる。
考古学的には七世紀後半の白鳳期の寺社が発掘され、その時代には多くの寺院が建立されていたのが確認できる。
千代川町の桑寺廃寺、大井町の野寺廃寺、曽我部町の與野廃寺、篠の観音芝廃寺、等々……。
国分寺
741年、聖武天皇は勅を発し国分寺建立が命じられた。
鎮護国家の功徳に期待をする国家仏教の成立となる歴史的な勅であった。
なおこのころ、豪族の間ではこぞって氏寺の建立が進められていた。仏教の浸透もそうであるが、律令体制により統一的な国家が成立し、そのため各地の豪族に漏れなく租税を課せられることとなったのが、建立が進んだ理由のひとつでもある。
律令制度には土地や財産の私有を否定する面があるため、財産を隠ぺいする目的で氏寺を建立して租税や財産の没収などを免れようとしたのである。
国分寺建立の勅により各地で国分寺が建立されるわけだが、丹波では問題なく進むということはならなかった。
丹波国分寺は、経済的な理由から造営は計画通りに進まず、勅から六年後の747年、国司の怠慢のため造営が進んでいないとして朝廷は勅使を派遣し三年以内の伽藍の完成を命じた。
丹波国分寺の造営場所は千歳町国分。現在は護国山国分寺という浄土宗の寺院がある。
国分寺のあった場所は台地上になっており周囲を仰ぎ見ることができる高台であった。国分寺にはシンボル的な塔が建てられることとなっており、丹波国分寺もおそらく五十メートル近い、七重、あるいは五重の塔が建てられていたという。
一段高くなった台地に五十メートル前後の塔が建てられるとなると、周囲の人は圧倒されたことであろう。
こうした中央権力の誇示が一つの目的として国分寺は建てられていた。
丹波国分寺の造営期は不明である。
亀岡市の発掘調査により金堂や塔、伽藍、僧堂などの位置が特定はされた。現在では山門をくぐり右手側に創建当時の面影を残す十七個の礎石が見受けられる。そこに五十メートル規模の塔が立っており塔を中心に、約二万七千平方メートルが国の史跡指定を受けている。
丹波国分寺は金堂、および塔は何らかの理由で倒壊したため、平安時代末期に再建された。再建時には規模は縮小されることとなった。
金堂は、創建時は二十五メートル四方の広さであったが、再建時は東西19メートル、南北15メートルほどに縮小された。
だが再建された金堂は鎌倉時代末期に焼失し、その後明智光秀の丹波侵攻に伴い廃絶されたという。
その後、宝暦年間(1751~1764年)に護勇比丘が再興し現在に至る。
本尊の薬師如来
参照:亀岡市史本文編 第一巻
現在の本尊となっている薬師如来は平安時代末期に作られた。丹波国以外の国分寺は平安以降、律令制度の弛緩により荒廃し、廃絶することが多かった。
しかし丹波国分寺は形を変えてこうして残り続けているという、珍しい運命をたどった国分寺でもある。